学校教育について

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私の両親は2人とも教師でした。
子供の頃、初めて知った職業は教師でしたので、幼心に自分は教師になるものだと思っていました。
子供にとって、一番初めに認識する「仕事をしている大人」は両親であることが多いでしょう。私も両親を見て「教師」という職業を認識し、自分も教師になりたいと思うようになりました。
しかし、ほどなくしてその夢はあっさりと崩れ去ります。
理由はシンプルです。父親が、毎日のように仕事で帰りが遅かったのです。先生同士で飲みに行ったり、勉強会をしたり、会議をしたり、さらに休みの日にはテストの採点、夏休みや冬休み前は通知表をつけたりと、とにかく毎日のように忙しく仕事をしている様子を見ていました。
その様子を見続けることで私がどう思ったのか、それは「教師になると休みの日まで仕事しないといけないのか。。休みの日に仕事するくらいなら教師にはなりたくないな。」ということです。私は教師を目指すことをあっさり辞めました。
高校の頃になると、人間関係が面倒くさくなったこともあり、コンピュータを相手にする仕事であるシステムエンジニアを志すようになりました。高校は進学校だったのもあり、いかに偏差値の高い大学に行くか?が先生や周りの同級生の関心事でもあったので、求められる正解に答えることに必死になりすぎていました。勉強が楽しいことは皆無でしたが、周りがやってるから仕方なくやっていました。
学校の先生は正解を求め、生徒はそれに答えるのに必死、この構図は多くの人が気づいていないことでもあるでしょう。学校のテストに正解か不正解かで人生が決まるものなのでしょうか。私はそうは思いません。自ら考えることによって、考える力が身に付き、しかもそれが日常生活や仕事、将来に使えるものでなければ勉強する意味はないと思っています。それが「技術」になっているかどうかです。自らのものになっていない知識は変な固定概念を植え付けるだけで、障害になることの方が多いでしょう。
考える道具となる技術を、今の学校で教えてくれるのでしょうか?残念ながらその技術は学術教育にはありません。もちろん学術教育にも素晴らしい面はたくさんありますし、今の社会がこれだけ物質的に豊かになった背景には学術の発達があります。その学術を補うのが「認識技術」なのです。
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