「和を以って尊しとなす」の和を「究極的な和」に上昇させる日本文明の挑戦
- 2021.12.16
- 社会

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AIを超えるGI創造者、よしじゅんです。
いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。
今日のテーマは「和を以って尊しとなす」についてです。
聖徳太子が残した言葉としても有名ですね。
日本文化の特徴として「和」はよく聞きますが、そもそも「和」とは何なのでしょうか。
和とは何か
和といえば、平和、和心、和解、温和などなど日本語にもたくさん使われています。
辞書にはこういう意味として載っていました。
わ【和】〘名〙
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C-448360
① やわらぐこと。おだやかなこと。
② 互いに仲よくすること。また、争っていたものが、仲直りすること。
③ うまくつりあうこと。調和がとれていること。
「和を以て尊しとなす」を現代語に訳すと「和を何よりも大事にしなさい」という意味です。
では、実際のところどうなのでしょう?
家庭において、地域において、国において、和が何よりも大事にされているでしょうか?
身近な家族同士でも争い・離婚は終わらず、企業同士でも足の引っ張り合い、国と国でも例えばアメリカと中国の覇権争いが終わらないなど「和を以って尊しとなす」とは程遠い状態がずっと続いています。
ところでここ数年、ダイバーシティ、多様性、SDGsなどの言葉をよく耳にしたり目にしたりする機会が増えています。
それらが持つコンセプトはまさに「和を以って尊しとなす」と近いものです。
日本は明治維新以降、西洋文明を取り入れ、半分日本、半分西洋のような状態です。日本における今までの西洋を中心とした文明の特徴は、例えば個人主義・利己主義・分断や対立といったものです。
そこから、共同体主義・利他主義・融合と調和という方向性にシフトしつつあります。
一方で、アメリカと中国の覇権争い、民主主義と社会主義の対立、アメリカと中国の半導体戦争など、分断と対立の流れは止まるよりかは加速している印象を持ちます。
では、なぜこのように「和を以って尊しとなす」とはなれないのでしょうか?
そのことについて考える前に、そもそも「和」とは何かについて再度考える必要があります。
ここでは和を3つの段階で考察していきます。
①相対的な和
まずは、多くの人が持っている「和」のイメージとして「みんな違っていて、みんないい」があります。
一人一人、親も家庭環境も兄弟構成も違い、個人同士は当然ですが、家族同士での価値観も違います。だからこそ、考え方も違って当たり前です。
「一人一人が持つ個性が違ってバラバラなのだから、それぞれの持つ違う個性を認め合いましょうよ。」そのような意味での和があります。
これが「相対的な和」です。
自分と他者を相対的に比較して、お互いの違いを認め合おうとする和が「相対的な和」です。
人同士の違い、例えば国家、民族、宗教、性別など、違いを理由に差別や非難、戦争の道具にするのではなく、違いを尊重し認め合うこと自体はとても重要なことです。
しかし、その違いを認め合えず、我慢を蓄積したり、我慢さえもできなくなって自殺したり、通り魔も現れてきているのが実情です。
「あなたはあなた、私は私」この状態では、必ず我慢が生まれてしまうため、我慢が蓄積すればいずれ限界がくるのは仕方がないことです。
②絶対的な和
そこで必要となってくるのが2段階目の和、「絶対的な和」です。
お互いの「違い」を比較する「相対的な和」とは異なり「対が絶えている」つまりペアがない、1つしかない、違いがない世界における和が「絶対的な和」です。
絶対的な和は一般的には馴染みがないかもしれませんが、仏教で言うところの悟り、九段階禅定の九段階です。境界線のない、全ての差が取れた世界(差取り、悟り)です。
それは、人間の脳では認識不可能・イメージ不可能・感じることも不可能な、脳の外(心)の世界です。脳を使ってしか考えることもできないのに、どうやって脳の外なんて言えるんだ、というツッコミもあるでしょうが、脳=心、イメージ不可能=イメージ可能、という方程式化に歴史上はじめて成功したのが後ほど出てくる「心感覚」なのです。
「絶対的な和」の世界は、人が生きている間のゴール、一生をかけて到達できるかできないか、それほどに難しいもの、そんなイメージを持っていないでしょうか。真理・真実は時間をかけて、苦行、修行、辛い苦しい経験を通してやっと得られるもの、私もかつてはそのように思っていました。
今の超情報化社会において、そのような時間も体力も使って、苦しい思いをしながら悟りを得たいという人は少ないでしょう。仏教にさほど人気がないことともつながりますが、結局、一部の人だけが答えをわかったとしても、社会への影響はさほどありません。
個人ではなく、集団レベルでの実践行動が一気に変わることでより強い影響力を及ぼすことができます。
誰かすごい人だけが到達できるのが絶対的和、そうでない人は到達できない、その格差をつくることは古いイメージの悟りです。
今日の流行は明日にはもう流行でなくなる、そんな変化が速い、量子力学的世界観の時代です。だからこそ、ちょっとした差別性では不十分であり「圧倒的な違い」が求められる大変革の時代でもあるのです。
③究極的な和
「相対的な和」を補うのが「絶対的な和」だとすれば「絶対的な和」を補うのが3段階目の「和」である「究極的な和」です。
「究極的な和」は、nTech・令和哲学を創始した令和哲学者ノジェス氏と26年間の同志との研究開発によって体系化されています。
「絶対的な和」の悟りの境地を「仏教の悟り・個人の悟り」とするならば、
「究極的な和」の悟りの境地は「侍の悟り・集団の悟り」だとノさんは言います。
聖徳太子は十七条憲法で、人と人との争いが終わらない原因をこう述べています。
「人皆党(たむら)有り。また達る者少なし。」
人はみんな党(仲間)をつくろうとする心があり、それが争いを生むのだと。
違いから出発する相対的な和には限界があります。それを補うのが複雑な世界をシンプル化する絶対的な和です。
違いがない世界からどのように多様な違いが生まれるのか、その仕組みを心感覚「0=∞=1」という「感覚化」することに成功したのがnTechです。
そして、それを個人だけのものにとどまらせず、集団の実践行動までをも可能にしているのが「究極的な和」です。集団の実践行動と相性がよいのが実は日本文明です。かつて明治維新の時に一斉に侍が刀を手放し、近代化を受け入れたり、天皇を中心にした全体主義で圧倒的強者のアメリカと戦争するなど、ありえないような集団レベルの実践行動を行ってきました。
今はそういった体を使った争いではなく、教育戦争の時代です。時代の限界を突破する集団をつくり、次元の違う集団レベルでの実践行動ができるかどうかにかかっています。
心感覚について詳しく知りたい方はノさんの新著「心感覚」をぜひご覧ください。
https://noh-jesu.com/shinkankaku/

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